2007年02月20日

新刊のご案内

当研究所、第4冊目のオンデマンド本、牛窪愛之進著『阿片禍――英国東洋侵略史』(クリックしてください)を刊行いたしました。本書は、昭和8年2月に暁書院から発行されたものを、今日の読者の便宜をはかって現代表記に直し、かつ本文に「長体明朝R」を使用して復刻したものです。内容は、明治維新の大きな原動力となった列強によるアジア侵略、とりわけ英国による支那(中国)植民地化のプロセスを阿片(アヘン)を軸に歴史的に活写したものですが、いちばんの特徴は、ともすれば固くなりがちなテーマを、著者の豊富な実地体験を随所に織り込み、わかりやすく、かつ大いに興味が持てるようなストーリー構成となっている点にあります。次に目次をご紹介しますので、興味のある方はぜひお買い求めください(出版活動を維持するにはお金が必要です)。

■ 『阿片禍――英国東洋侵略史』目次

序 3

第T編 認識編

第 1 章 阿片への認識 ―― 阿片の一般知識のために
阿片の正体 16
阿片の名称 16
煙禍――罌粟の奇蹟 17
罌粟(ポピィpopy) 18
罌粟の栽培――播種より成果まで 18
阿片の採取 20
生阿片の製法 22
調製阿片 24
煙膏の製法 25
阿片派生物 27

第 2 章 阿片と人体 ―― 煙禍とはどんなもの?
阿片の人体に及ぼす急性反応と用途 29
阿片の統計 31
阿片吸烟に必要な諸道具 34
阿片の吸い方 38
御用学者 39
阿片中毒者の敵愾心 41
阿片吸烟のきっかけ 43
第一期 感興時代――人生の春 45
第二期 神秘時代――君子の相 48
いよいよ大詰め――悪魔時代 52

第 3 章 阿片の支那入り ―― 西欧列強の東侵
西力東漸の前奏曲――マルコ・ポーロの見聞 64
海路による東方探求への機運高まる 70
未曾有の大混乱に陥った欧州 73
ポルトガルの興亡 75
宣教師による銃器斡旋の意図 77
スペイン、マニラを東洋侵略の拠点とする 78
温情策によって土人を馴化したオランダ 80
台湾における阿片栽培 81
阿片吸烟は西方の悪習 83
稗史の考察より得た阿片吸烟の時代考証 85

第 4 章 大英の東洋進出 ―― 侵掠の意図の下に帝国主義へ
スペイン・ポルトガル時代 88
好敵手フランスの登場 89
非合法的指令 90
クライヴの暴政 92
ヘイスティングズの暴政と悲運 94
版図経営の失敗と国内の大不況 96
英国の財政危機と阿片政策の激化 97
南海貿易会社の設立と庶民の投機熱 99
南海貿易会社株式の釣瓶落ち 101
失敗したスペイン、ポルトガルの阿片政策 102
英国の隠忍自重と清国の阿片禁圧令 105
飛ばんとする前の雌伏期 107
英国の清国への毒薬強要 109

第U編 戦争編
第 5 章 阿片戦争の遠因 ―― 清英闘争の前哨戦
マカートニー卿の派遣 114
阿片惑動に入る 117
阿片の売り込み指令発せられる 118
ローズ式阿片密輸劇(二場) 121
清帝大侮辱事件――アマースト卿の派遣 125
非合法的潜行運動のスピード化 129
阿片戦争の誘因――硬骨漢・林則徐 134
英領事エリオットの報告と東洋艦隊の出動準備 138

第 6 章 南京条約 ―― 国辱条約の嚆矢
条約の内容 144
なにが彼らを戦争に導いたか 145
阿片戦争の影響──スピード化する列国の進出 151

第 7 章 阿片のお友だち ―― 偽宗教と革命運動
洪秀全と米国の宣教師ロバーツ 154
英国の巧妙な「洪、米離間策」 162

第 8 章 阿片禍への拍車 ―― 再び戦機を胎む
英国、南米植民地建設の奴隷人夫を支那に求める 165
アロー号国旗凌辱事件突発する 166
内憂外患、ほしいままに蹂躪される清国 169
英米仏清、共同して太平天国を掃蕩す 171

第V篇 国 際 篇
第 9 章 阿片の方向転換 ―― 国内栽培と海関奪取
列国の通商目的と領土的野心 178
国際問題の縮図 179
ある英国紳士との阿片問答 182
現代支那における阿片消費量の概算 187
なぜ軍閥が発生するのか 189
英国による支那関税権の乗っ取り 191
廃督裁兵は可能か 194
支那騒乱は英国の阿片侵略が主因 198

第 10 章 土 匪 行 ―― 阿片と土匪、軍閥との因果関係
初期の阿片栽培 204
リットン報告書の支那観を批判する 208

第 11 章 断 面 図 ―― 阿片支那と国際支那
国と民衆を崩壊させる代弁 213
列国は支那政府を援助し使嗾する 215
張学良、蒋介石、これみな東洋人のダニ 218
みずから放棄せるものは与えらるべし 220

第 12 章 国際阿片会議 ―― 阿片の始末書
推定吸烟者数、最低で一千三百万人 222
英国阿片売買禁止会の設立と英国政府の対応 224
良心麻痺の報告書 225
清朝、阿片禍に驚き米国の手にすがる 226
台湾で実施されている逓減法の批判的説明 229
英国の漸減生産の実際 233
ハーグ万国阿片会議 235
一九一四年六月 237
支那の断末魔 239
大戦は終焉し、阿片は国際連盟の手へ 242
阿片禍の池に一石を投じた報告書 244
国際阿片会議における英米の反目 246
百年河清を待つに等しい条約文の内容 249

結 論 ―― 煙禍の涯を見透かして国際日本の奮起を要望す 251
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2007年02月18日

新刊のご案内

 このたび当研究所では、3冊目のオンデマンド本、フラウィアン・ブレーニエ著『パリサイ・シンドローム――「タルムード」に洗脳された選民の攪乱』(クリックしてご覧ください)を刊行いたしました。本書は、昭和16年11月に破邪顕正社から発行されたD・グラッペ著『世界攪乱の律法 ユダヤの「タルムード」』を改題し、今日の読者の便宜をはかって現代表記・現代文に全面改訂したものを中心に据え、補遺として『ユダヤ人が暴露したユダヤ人呪縛の構造』「シオン長老の議定書」「ユダヤ鑑百則」を付し、かつ本文に「長体明朝R」を使用して復刻したものです。宗教やマインドコントロール問題を考察するうえで必携の、他では入手できない稀覯書です。次に目次をご紹介しますので、興味のある方はぜひお買い求めください(出版活動を維持するにはお金が必要です)。

■『パリサイ・シンドローム――「タルムード」に洗脳された選民の攪乱』目次
翻訳者序/発行者序 3
はじめに 10

第1章 古代イスラエル民の叛逆
偶像崇拝癖 13
人身御供と「儀式殺人」 14
イスラエル国とユダヤ国への分裂 16
異教崇拝を選んだイスラエル国 18
モーセ五書のみを信奉するサマリア人 20
ユダヤ王の偶像崇拝への傾斜 21

第2章 バビロン幽囚とパリサイ派
祖先の宗教に復帰したユダヤ人 23
カルデヤの汎神論 24
パリサイ派の発生 27
カバラと秘密結社の誕生 28
サンヘドリンの掌握とユダヤ民の洗脳 30
正統的信仰を固守するユダヤ人たち 34

第3章 キリストとパリサイ派の対峙
パリサイ派への衝撃 39
キリストの歴訪と磔刑 40

第4章 キリスト教徒の迫害
パリサイ派の危機 43
キリスト教徒迫害の武器 44
サンヘドリンの誹謗中傷作戦 47
サウロの回心 50
ネロ帝のキリスト教徒迫害 51

第5章 復興したサンヘドリンと『タルムード』
エルサレムの陥落とパリサイ派の政権簒奪 54
ユダヤ人の反乱とキリスト教徒の殺戮 57
パリサイ派の権力の再確立 58
聖ユダによるタルムードの根幹部分の編纂 61
サンヘドリン、バビロニヤに本拠を移す 62
「追放民の君主」の登場 64
コンスタンチノープルへの移転 67

第6章 預言者と『タルムード』崇拝
タルムード、天日に曝される 71
「好きなようにやれ」 73

第7章 神、天使および悪魔についての『タルムード』の見解
神の愚弄 77
悪魔は肉体をもたない月世界の住人 80
律法博士は悪魔を自由に操る 82

第8章 『タルムード』の思想的核心
バイブルの歪曲 84
輪廻信仰に基づく新たな教義の確立 86
輪廻の事例 87
カルデヤ人の哲学思想のユダヤ的改変 88

第9章 ユダヤ道徳教の鉄則@
ユダヤ人だけが人間 91
ゴイのものはユダヤ人のもの 94
高利貸し業を営む本当の理由 96
詐欺、瞞着、強窃盗、横奪…… 97

第10章 ユダヤ道徳教の鉄則A
非ユダヤ人の生命 101
儀式殺人と淫猥 103
キリスト教徒を殺す権利 104
唯一の有効な方法 106

第11章 現代に根を張る『タルムード』
理解を困難にしているもの 110
タルムードは現在も経典である 112
他に例を見ない苛酷な措置 113
「ドレフュスは売国奴」と明言した律法博士 115
律法博士ブラウェルを襲った刑罰 117

結論 120

【補遺1】『ユダヤ人が暴露したユダヤ人呪縛の構造』
「シオン長老の議定書」の目的 122
ユダヤ人の洗脳機関「サンヘドリン」 123
サンヘドリンは世界権力を希求している 124
「パナマ帽」と「汚辱」の暴露 126
合衆国のメディア支配 126
ユダヤの秘密を洩らしたユダヤ人に対する迫害 128
魔法のスローガン「シオンに帰れ」 129
ユダヤ人と非ユダヤ人の利用 131
国連のコントロール 133
合衆国に存在しうるのは反サンヘドリン主義 134
私がカハールの標的となった理由 136
プロトコールは本物である 138
このままではユダヤ人は悲惨な運命をたどる 139
毒物と物理的な暴力による脅し 141
ユダヤ民族の災いのもと=政治的シオニズム 141
アメリカ在住ユダヤ人が知っていること 143
ユダヤ人の聖杯に盛られた毒 144

【補遺2】プロトコール『シオン長老の議定書』 145

【補遺3】タルムード抜粋『ユダヤ鑑百則』 221
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2007年01月17日

「国際ユダヤ人」再刊のお知らせ

絶版になっていた「国際ユダヤ人」を再刊いたしました。詳しくは「ホンニナル・マーケット」をクリックしてご覧ください。

「獅子身中の虫」同様、写真・図版を挿入して分かりやすく編集してありますし、私が制作した書体「長体明朝R」を本文に使用していますので、読者の目と美意識にも配慮した作りになっています。

ご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。(島講一)
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2006年12月30日

「長体明朝R」制作物語――その5

「馴れる」という現象があります。また、「蓼(たで)食う虫も好き好き」という諺もあります。つまり辛(から)い蓼を食う虫もあるように人の好みはさまざまだという意味ですが、そうすると当然、「審美眼という抽象的な基準よりも、日本人の眼が明朝体の形象に馴染んでしまったのだから、別に構わないのでは?」という意見が出てくるはずです。しかし、調べを進めるうちに、ほかにも大きな問題があることがわかってきました。

すでに戦前、こうした日本の文字の現状に眼科医の立場から警鐘を鳴らした人がいました。東京大学の医学部長をつとめた石原忍です。色覚異常(色盲)検査表の創造者でもあった石原は各国の近視者の比率調査をしました。すると欧米では大学生でもせいぜい二〇%なのに、中国では五〇%、日本では七〇%とズバ抜けて多いという事実に直面し、その原因を追究した結果、次の結論に達したのです(『活字に憑かれた男たち』より)。

《近視の原因には諸説ありますが、その一因には、学習、読書、執筆、デスクワークなどの、眼科では近業とよぶ、ちかいところをみていると、眼球の水晶体は膨らんで度をつよくし、さらに近業が長時間おこなわれると、水晶体は弾力性をうしない、膨らんだままとなって、もとに十分にはもどれない状態となって、近視をまねくとされます。……
 この原因は、多少は先天的、あるいは民族固有の特質だとすることができても、農村においての近視者は、日本でも中国でも、せいぜい五パーセントにとどまります。
 したがって近視は、近業がもたらすばあいがおおく、日本人と中国人が、欧米人に対して近視率の点でおおきな差をみるのは、その言語表記、とりわけ数千にもおよぶ、複雑な形態をもつ漢字にあるとしたのです。……
 さらに石原は、漢字だけを使用している中国人よりも、ひら仮名、カタ仮名まじり文をもちいている日本人に、より近視率がたかいのは、漢字の明度と、両仮名の明度とに差があって、瞳孔の開閉運動がさかんにおこなわれることが、日本人の近視率をたかめているのではないかと推論しています。
 すなわち比較的明度がそろった漢字ばかりをみている中国人よりも、日本人のほうが近視率がたかいのは、目のなかの「絞り」が、仮名のときはとじて、漢字のときは開くという連続動作を繰りかえすことによって、眼球疲労をまねくとしたのです。
 そしてその対策としては、この国のことばと、その表記のありかたを検討する必要があるとしました》(三〇六〜三〇九頁)

石原はこのあと、学者としての立場にとどまらず、新しい文字の開発に果敢に挑戦していきます。しかし以後、石原を含め、日本の読書人の近視率を低下させるという本来の目的は誰によっても実現されることなく今日にいたっています。
いったいどこに問題があったのでしょう。
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「長体明朝R」制作物語――その4

ここで一つ問題にされなければならないのは、先の引用文の中の「一九世紀のキリスト教伝道者の審美眼」という部分です。『欧文書体百花事典』で執筆を担当したボドニの項で、片塩二朗氏は、

《ボドニとその工房の書物は、ともすると古典にたいする学問的な素養にかけたり、校訂のあやまりがおおいとして、当時からフランスの印刷一家ディド家などからのきびしい指弾がつづいてきました。またほとんどのタイポグラファの専門家のあいだではその評価がひくいにもかかわらず、一部のコレクターやグラフィック・デザイナーのあいだに熱心な支持者がみられるという、不思議な活字書体であり書物でもあるようです》(二九一頁)

と指摘しているように、また欧州に長く滞在して現地の活字に造詣が深かった井上嘉瑞も、戦前すでに『書窓・ローマ字印刷研究』(アオイ書房、一九四一年)の中で、

《現代の活字印刷術が、東洋に根をおろしたのは比較的近代のことで、漢字の活字が本格的に製作されるようになったのは、一九世紀中葉の上海あたりであった。
当時上海でこの種の仕事に関係したのは欧米人であって、一九世紀の欧米印刷界を風靡した、モダン・フェース系の機械的正確さと、均斉感と、作為的な文字の構成に馴染んだ連中によったことは否定できない。
したがってこれらの人々が指導して製作された漢字書体、すなわち明朝体とは、一九世紀欧文書体の傾向と、一脈あいつうじるのは当然である。
すなわち明朝体における明確な強弱の線のコントラスト、本来筆書のもつ線質をもった楷書体を「図案のように作った』書風、いずれの文字をも、画一的に同一寸法の正方形に押し込んだ、機械的な作図法などは、一九世紀中葉に流行していた、後期モダン・フェース活字の欠点である、強い線のコントラスト、肉筆の味わいをうしなった機械的形態、ならびに文字幅の一律化と完全に一致している》

とこき下ろしているように、さらにまた中国のタイポグラフィ研究家・張秀民氏が、明朝体は「膚郭(ふかく)文字」と呼ばれていたとし、

《清代の蒲松齢(ほしょうれい)によりますと、明朝後期の隆慶(一五六七―一五七三)、万暦(一五七三―一六一九)の時代に、文字を写す工人たちは、もっぱら「膚郭文字」を書いていました。ちなみに膚郭とは、内容がからっぽで、実際に適合しない。あるいは大げさで、非実用的であるなどの意味があります。
 かれらはそれを宋代の木版印刷書風にならったものとして、宋体とよんでいました。書物のために宋体をもちいるのは、ここにはじまったとしています。
 これも清代の銭泳(せんえい)によりますと、明代中葉の文字を写す工人たちは、すべての文字を真四角な文字形象にかえてしまいました。その結果木版書風は欧陽詢の書風(欧体)でも、顔真卿の書風(顔体)でもなくなって、もはや書風(字体)とはいえないものになってしまった、としています。
 これらの「膚郭方形文字」は、明代には宋体・宋板字・宋字様・匠体字などとよばれていました。ところがこれらの書風と、実際の宋代の木版の書風とは、似ても似つかぬものでした。明代のひとびとは「木版印刷の書風は、宋の時代のものを尊いとするく。その端正な楷書体が、荘厳なのを評価する。これは永遠不滅のものだ」と考えていました。つまり宋体字を、一般のひとも評価していましたし、幾久しく受け入れられると考えていました。そのために実際の自分たちの木版書風が、宋代のものとはおおきく異なっていたのに、あえて「宋体」とよんだだけなのです。
筆者はかつて、現存する宋代の木版書を、四〇〇余りもしらべましたが、「膚郭方形文字」のように間が抜けた文字を、宋代の木版印刷物のなかに、みつけだすことができませんでした。したがって、これらの書風を「宋体」とよぶのは適当ではなく、むしろ「明朝字」、あるいは「明体字」と改称すべきでしょう。そうすれば比較的、名前と実態が一致することになるでしょう》(張秀民著『中国印刷史』片塩二朗訳、上海人民出版社、一九八九年)
       
 と酷評しています。つまり、明朝体は日本と中国のタイポグラフィ専門家の審美眼にまったくそぐわない書体なのです。
 ちなみに、明朝体と形象のよく似たボドニのその後ですが、可読性が悪い(読みずらい、眼によくない)という理由から、欧米では本文書体として用いられる機会が少なくなり、現在にいたっています。また漢字圏の中国と台湾では、主に「宋朝体」が本文書体として使用されています。ところが、日本では明治から今日にいたるまで明朝体が主流を占めてきました。これはいったい何を意味するのでしょうか。
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「長体明朝R」制作物語――その3

『欧文書体百花事典』には、「ボドニがつくった活字書体ははローマン体だけでなくて、百の外国語書体や千三百のオーナメントからなり、その活字父型は五万五千本以上にのぼります」(二九一頁)とありますが、この一文は一九世紀に入ってから怒濤のごとく開始されたイギリスとフランスによる強圧的な植民地政策と深く結びついていました。

ご承知のように、植民地政策にはその露払いとしてキリスト教の宣教師が必ず付き従っていました。まずはキリスト教によって現地の住民を洗脳・分断し、混乱させ、その後で軍隊を派遣して流血の惨事にうったえるのがイギリスとフランスの植民地政策の常道でした。

キリスト教を布教するには対訳辞書と現地語による聖書が不可欠です。ボドニが制作した「百の外国語書体」はそのために用いられたはずです。片塩二朗著『活字に憑かれた男たち』には、その経緯が次のように記されています。

《一八―一九世紀のキリスト教伝道者たちが馴染んでいたのは、当時欧州を席捲していたトランジショナル・ローマン体や、モダン・ローマン体の系統の書体でした。大航海時代をへて東洋にたどりついたとき、かれらが着目したのが明朝体でした。
 キリスト教伝道者は、母語と現地語との辞書づくりを企画しました。布教をするにも、交易をするにも、あるいはかくされた目的としての、植民地支配をなすためにも、まずは辞書がもとめられたのです。
 当然かれらは母語としてたずさえてきた活字との整合性、つまりトランジショナル・ローマン体や、モダン・ローマン体との相性がいい書風をさがしたはずです。かれらは中国の木版印刷の彫刻師をさがしだして、さまざまな書風をこころみたはずです。そして一九世紀のキリスト教伝道者の審美眼にかなったのが、かれらが母国で馴染んでいたモダン・ローマン体にもっともちかい、明朝体の原形だったのです……。
 明朝体が印刷用活字の主流をしめたのは、まったくのところ、中国やわが国のなしたところではありません。
 かれらはまず、主として伝道事業にかかわる宗教書の作成を迅速にすることを目的として、マカオの東インド会社のP・P・トムズによって、最初の彫刻活字が作成され、パリのバンチカッターM・ルグラン、ロンドン伝道会のサミュエル・ダイアらによって、金属活字明朝体は徐々に開発されていきました》(二五一〜二五二頁)
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2006年12月29日

「長体明朝R」制作物語――その2

現在の日本の出版界では、書籍の本文書体としてもっぱら明朝体が使用されていますが、現在の形象のものは眼にとって大いに問題ありということが段々とわかってきました。

その手がかりを最初に与えてくれたのは『欧文書体百花事典』(朗文堂、二〇〇三)です。図版が豊富な大判五四六頁のこの大冊をじっくり読み進めているうちに、次の記述に出会い、ハッとしました。

《欧州における「印刷の悪魔の世紀」からの脱却のためには、一九世紀末にまず個人印刷所運動の指導者ウィリアム・モリス(一八三四‐九六)らの登場を待つことになりました。この運動は産業革命がもたらした社会的、倫理的、芸術的な混乱への反動として、一九世紀最後の一〇年間に欧州で展開されたものでした。この運動家は「安かろう、悪かろう」といったヴィクトリア女王時代の大量生産品を嫌悪することからはじめたために、個人的な嗜好や耽美主義がみられなくもなかったようです。ちなみにウィリアム・モリスは、
「ニコラ・ジェンソンは最高水準のローマン体をのこしたが、その死後には次第に印刷活字は衰退して、一八世紀になるとついに活字はボドニ・ローマン体という、醜さの極致へといたるほどに質がおちてしまった」
 とボドニ・ローマン体に酷評を浴びせたひとでもありました》(二九二〜九三頁)

ニコラ・ジェンソン(一四二〇〜八一)はフランス人で、パリ王立造幣局の金型彫り職人を経てトゥールの造幣局長のときに、当時の先端技術であった活字版印刷術をフランスに導入するためにマインツのヨハネス・グーテンベルク(一三九八〜一四六八)の工房に派遣されました。そしてそこで修得した技術を活かして、一四七〇年には、たいへんに洗練された読みやすくて明るい活字書体を設計しました。現在、タイポグラフィの専門家たちのあいだでは、このジェンソンの活字はヴェネチアン・ローマン体と呼ばれ、ローマン体活字の元祖にして最高傑作と言われています。

 一方、モリスの悪評を浴びたボドニ・ローマン体ですが、これはイタリアのパルマ公国印刷所の印刷監督官ジャンバティスタ・ボドニ(一七四〇〜一八一三)が一七九〇年に設計したもので、当時すでに姿をあらわしつつあった機械産業時代の息吹きを強く感じさせる幾何学的で直線的な形象の書体でした。

 百聞は一見にしかず、なにはともあれ「ヴェネチアン・ローマン体」と「ボドニ・ローマン体」をクリックして両者の書体見本を比較してみてください。後者の形象が明朝体とよく似ていることがおわかりになるはずです。
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「長体明朝R」制作物語――その1

??ь????±.jpgプロフィールにもあるように、私は書体設計者を名乗っています。今年になり「長体明朝R」(左をクリックするとPDFの「書体見本」をご覧いただけます)の制作が微調整を残す段階に入って「行けるかも」という気がしたとき、そうすることに決めたのです。編集者・翻訳者・書体設計者……「まぁ、なんと欲張った」と眉をひそめる方がきっといらっしゃるはず。でも、準備期間はそれなりに長いものがありました。

 編集者という職業からして当然といえば当然なのですが、なぜ「書体」すなわち「文字」にこれほど思いを募らせるようになったかというと、「老眼」がきっかけです。現在、私は57歳ですが、40代後半になって老眼鏡をかけて本を読むようになったある日、文字を長時間追うことに耐えられない自分が仕事場のソファに横たわっていました。そこには、すぐに眼が疲れて、本を傍らの小テーブルに置き、眼をつむり、思わず微睡(まどろ)んでしまう自分がいたのです。

 これはいけないと思った私の頭の中では、すぐに追究の虫が蠢(うごめ)きはじめました。

 調べが進むと、どうやら文字そのものに原因があることがわかってきました。手がかりを与えてくれたのは次の名著です。

 *『活字に憑かれた男たち』片塩二朗著(朗文堂、1999)

 実際に書体を制作するうえでとても参考になったのは、タイポグラフィ・ジャーナル『ヴィネット』の次の二冊のバックナンバーです。

 *『挑戦的和字の復刻』今田欣一著(朗文堂、2002)
 *『和漢欧書体混植への提案』今田欣一著(朗文堂、2003)


 

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Jさんからのメール

友人のJさんからメールが送られてきました。この情報、私一人だけが抱えていてはもったいないと判断したので、ブログに掲載することにしました。(島講一)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ご無沙汰いたしております。お元気でしょうか。
突然のメールで失礼致します。時々、歴史情報研究所のブログを拝見致しております。

以前、島さんに電話にて、米国が火星に巨大な基地を少なくとも3つは建設していることを、お話ししたと思います。
これは、私があるアメリカの大学の情報筋の方から聞いたことだったのですが、私も半信半疑でした。
ところが最近、偶然ですが、既に米国では一般の人々にも情報が漏れたのか、軍事関係に詳しい人の間では噂に上るようになっていることが、ネットサーフィンをしていて分かりました。そのビデオを紹介しているサイトが、日本人のある変わり者? の作ったサイトに登場しました。ご覧になってみてください。

http://www.atlantis-kyoukai.net/

ここの上部、ビデオという所を開くと、「第3の選択」のビデオが紹介されています。
他にも紹介したサイトがあるかもしれませんが、もしお暇がございましたら、ご覧になってみてください。
と言っても、このビデオでは基地の話までは触れていないかもしれませんが。

以上、よりよき新年をお迎えください。
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2006年12月27日

ヒラリー・クリントンの背景

 KKベストセラーズの雑誌「CIRCUS」2007年1月号に注目すべき記事が掲載されています。国際情報アナリスト・高橋五郎さんによる「ヒラリー・クリントンの肖像画」です。すでにブログでもご紹介したように、諜報筋によればアメリカの次期大統領選は民主党はヒラリー・クリントン、共和党はコンドリーサ・ライス、つまり女性同士の一騎打ちで、ヒラリーの勝利が確実とのことですが、それを心から納得できる背景が紹介されています。記事を読んで高橋さんにご質問のある方は、内容をブログのコメントにお書きください。高橋さんに転送して回答をいただけるようにしてあります。(島講一)
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2006年12月09日

出版のお知らせ

本ブログで連載を終えた「パラサイト◎内部の敵」が本になりました。内容は「獅子身中の虫」をクリックすると確認できます。

写真・図版を挿入して分かりやすく編集してありますし、私が制作した書体「長体明朝R」を本文に使用していますので、読者の目と美意識にも配慮した作りになっています。

つきましては、本ブログの「パラサイト◎内部の敵」を一部を除き非公開にさせていただきますので、ご了承ください。

ところで、今回、私が本の印刷・製本・流通をお願いした「ホンニナルマーケット」に私は大いに注目しています。今後、取次や書店、出版社サイドからの風圧に耐え抜けば、自己規制でがんじがらめになったこれまでの日本の出版業界を大きく変えるまったく新しい本の出版・流通形態が定着するのではないかと期待しているのです。

「ホンニナルマーケット」に惜しみないエールを送りたいと思います。(島講一)
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2006年12月04日

『ユダヤ人と彼らの嘘について』その15(最終回)

彼らの神への冒涜と高利貸しを警戒せよ

 私の意見では、以下のような結論にならざるを得ない。もしもわれわれがユダヤ人の神から潔白で、彼らの共犯者になりたくないのであれば、彼らと分離して住まなければならないし、彼らはわが国を去らねばならない。かくすれば、彼らはもはや、われわれが彼らを捕らえていると嘆くこともできないし、神に嘘をつくこともできない。われわれとしても、彼らが神と高利貸しによってわれわれを悩ますと嘆くこともなくなるであろう。これが、両者に安全を保証するもっとも手っとり早い最善の方法である。
(このあとには、キリスト教の教義に反するユダヤ人たちのキリスト教への非難に対する聖書からの長い引用を含む反論が続いている)
 善良な閣下諸氏、友人諸氏、私はあなたがたの督励を受けてあなたがたの小冊子に多くのことを書き記した。そこでは、一人のユダヤ人が無関心なキリスト教徒に対して狡賢い議論を展開している。目下のところ、神の御加護により、彼は私になにもしていない。
 ユダヤ教徒になりたくないキリスト教徒が、盲目的で有害なユダヤ人に対抗し自衛するに十分な論拠を、この小冊子に見いだしてくれることを望むものである。また、ユダヤ人の邪悪さや虚偽、呪詛といったものに対抗すること、彼らの信念が偽りであるばかりか、彼らがあらゆる悪魔にとり憑かれていることを知るに至る縁とされんことを望む。
 わが主キリストがユダヤ人たちを恵み深くも改宗させ、われわれを永遠の生命という叡知のなかにしっかりと据えて下さいますように。アーメン。

人類の評価

 以下には、ルターのさまざまな説教や著作より引用された数節が続いており、各文章のあとに引用文の原典が記されている。

*原注――「W」と記されたルターの著作からの引用はウェルマー版から、「E」と記されたものはエアランゲン版からのものである。

ユダヤ人は地獄行きを宣告された若い悪魔である。(E32巻二七六頁)

 おそらく、温和で心穏やかなキリスト教徒は、私が彼らを嘲笑し、多くの皮肉を湛えて彼らを扱っていると考え、哀れで迫害を受けているユダヤ人にはあまりにも厳しすぎ、激しすぎると思うであろう。だが実際には、私は弱すぎて、かかる悪魔的な獣を笑うどころではないのだ。できるものなら、私は喜んでそうしたい。しかし、彼らは嘲ることに関しては私よりも上手で、その技術にかけては達人の神を擁しているのだ。それは悪魔自身である。(E32巻二八六頁)

 旧約聖書以上の証拠はないが、私は以下のことを主張したいと思う。これらのことに関しては、地球上のだれも私の意見を変えることはできないだろう。つまり、ユダヤ人は現在そうであるように、世界中に広がるすべての真に堕落した評判の悪い悪漢どもの混合体であり、タタール人やジプシーと同様に世界のあらゆる国に離散してきたのである。
 そして彼らは、高利貸しによってさまざまな国の国民を苦しめ、他国民をスパイし、裏切り、井戸に毒を投げこみ、欺き、子どもたちを誘拐し、端的にいえば、あらゆる種類の不正と非礼を行なってきた。( "Von Schem Hamphoras und von Geschlecht Christi"からの抜粋、一五四三年)

ユダヤ人の危険性

 外科医とか医者とか表明しているユダヤ人は、彼らの薬を用いるキリスト教徒の健康、財産を奪うであろう。それは、こうしたユダヤ人医師は、もしも彼らがキリスト教徒を苦しめ、ひそかにキリスト教徒を殺害するならば、彼らの神から特別の恩寵を得られると信じているからである。にもかかわらず、われわれ愚かな者たちは、自分の命が危機に晒されているときに、われわれの敵と彼らの悪魔的な技術に救助を求めさえするのである。まことに悲しむべきことだが、これは神の試練なのである。(E62巻三六七頁)

ルターの遺言

 主要な著作が完成すれば、私はただちにユダヤ人の追放に全力を注がねばならないであろう。アルブレヒト伯爵は彼らに敵対的な態度をとり、すでに彼らを見限っている。しかし、いまのところ彼らはまだ誰によっても妨害されていない。神の御加護によって私が行なう説教で、説教台からアルブレヒト伯爵を支援し、彼らを追放してやろう。(死の直前にルターが妻へ宛てた一通の手紙からの引用)

ルターの最後の説教「ユダヤ人への警告」

 ……そのうえ、国内にはたくさんのユダヤ人が居住しています。彼らは多くの災いをもたらします。……あなたがたは、これから述べる事実を知らなければなりません。つまりユダヤ人は、われらの救世主の御名を日々冒し、汚しているということを。この理由によって、あなたがた閣下ならびに当局関係諸氏は彼らに寛大を示すことなく、追放しなければなりません。彼らはわれわれの公けの敵であり、絶えまなく主キリストを冒涜しています。彼らは、われわれの聖母マリアを娼婦と呼び、その聖なる御子キリストを私生児と呼んでいます。そして彼らは、われわれキリスト教徒を「取り替えっ子」(妖精が替わりに置いていったという醜い子)とか「片端」といった悪口を言っています。
 もし彼らがわれわれ全員を殺戮することができるなら、彼らは喜んでそうするでしょう。実際に彼らの多くは、とくに外科医とか医者とか称する連中は、キリスト教徒を殺害しているのです。彼らは、一時間または一カ月で死をもたらす毒を人びとに与えるボルジア家〔一五〜一六世紀のローマの名家〕やメディチ家〔一四〜一六世紀のイタリア・フローレンス市の名家〕などイタリア流のやり方で、薬を扱う技術に習熟しているのです。
 それゆえ、激しく悶えながら主イエス・キリストを冒し、われわれの命と健康、名誉、財産を奪う以外になにもできない彼らを厳しく取り締まらなければなりません。私は、大切なわが救世主を故意に冒したり汚したりする連中と、耐え忍んで交際しつづけることはできません。私は、よき愛国者として、あなたがたが外国人の罪に加担することを止めるよう、まさに最後の警告を与えたかったのです。私はただあなたがた全員のために最善の統治者と最善の臣下を望んでいるだけなのだということを、あなたがたは知らなければなりません。(E62巻八九頁)

*原注一――マンスフェルトの伯爵たちの意見の相違がルターの旅行の動機であった。
*原注二――一五四六年二月の死去の数日前にアイスレーベンで行なわれたもの。
(了)
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『ユダヤ人と彼らの嘘について』その14

彼らは新約聖書を冒涜する

 あなたがたは、「そうです。ユダヤ人は新約聖書を受け入れないのだから、前節でキリストが言われたようなことを信じないし、知らないのです」とでも言うのだろうか。私はそれに対して次のように答えよう。「願わくば、ユダヤ人たちがそれらのうちの一つでも、知るか信じてくれることを」と。われわれキリスト教徒は、彼らがイエスを冒涜し、呪っているとき、その父なる神を公然と冒していることを知っている。
 もしも神がわれわれに、今または審判の日に次のように言われたとしたら、われわれはなんと答えたらよいか教えてもらいたい。「お前たちはキリスト教徒でありながら、ユダヤ人が公然と私と私の息子を冒していることを知っており、またお前たちは彼らがそうすることができる余地を与えた。さらにまた、彼らがお前たちの国や町や家のなかで妨害も処罰も受けずにそうすることができるようにし、庇護した!」と。
(このあと聖書を引用した学術的および理論的性格の長い論考が続くので一部割愛)
 従ってわれわれはかかる事態を冗談として済ますわけにはいかないのである。それに対抗する知恵を真剣に見いだして、ユダヤ人からわれわれの魂を救い出さねばならない。すなわち永遠の死より救い出さねばならないのだ。この知恵こそがなによりも肝心である。
 まず第一にわれわれは、彼らが会堂をもつ権利を拒否する。ユダヤ人たちがそのなかで、われらが創造主、父なる方をその方の御子と共に長期間にわたって冒しつづけるような建物を認めないことを世間に知らせるためである。そうしたことをわれわれは断じて黙認することなどできないのだ。
 第二に、彼らのすべての書物、祈書、タルムードを没収すべきである。さらにその一頁たりとも残されてはならない。改宗する者たちのために残されてはならないのである。彼らは、それを神の御子と神ご自身すなわち御父、天地創造主を冒するためだけに用い、他の目的に用いることはないのだから。
 第三に、彼らがわれわれの領地で神を讃え、感謝し、祈り、説教することは公けに禁止されねばならない。そうしたことは、自分たちの国か、もしくはわれわれキリスト教徒の耳に届かないどこか知られざる地で行なわせることにしよう。それは、彼らの神への讃美・感謝・祈・説教はその心と口が父なる神をナバル・ボリック〔ダビデの要請を拒絶して死んだ富裕なカレブ人でアビガイルの夫ナバル(愚かの意がある)のことか? サムエル記T第二十五章二十六節〕と呼ぶことに外ならないからである。そして神の御子、われらが主イエス・キリストをも同様に呼ぶことになるからである。彼らは神の御子を呼び唱えるが、それと同様に父なる神の御名を呼び唱えるからである。彼らが多くの美しい言葉を用い、神の御名を華々しく唱えたとしても、彼らは救われることはないであろう。次のように記されているからである。「あなたがたは主、すなわち神の御名をいたずらに唱えてはならない」と。ちょうど彼らの祖先がイスラエル王国時代に神の御名を唱え、そしていまだにそれをバアル〔邪神、偶像〕と呼んでもなんの救いにもならないように。
 第四に、われわれの前で彼らが神の御名について話題にすることを禁ずるべきである。われわれは確固とした良心をもっており、そんな目にあうことには耐えられないからである。彼らの冒的な心と口が神の御子をナバル・ボリックと呼ぶとき、彼らはまた御父をも同じ名で呼んでいるのである(われわれキリスト教徒にとって他に解釈しようがない、まさにその名前で)。われわれは、神の御子が彼らにそう呼ばれ、そうであると信じられている以上、その御父でさえそう呼ばれ、そう信じられていると考えるほかないのである。
 それゆえユダヤ人の口は、われわれの耳の近くで神の御名を唱える資格をもたないと考えるべきである。そして、ユダヤ人が神の御名を唱えているのを聞いた者は為政者に報告すべきである。この点において、慈悲深かったり、親切であったりしてはならない。なぜなら、それは神の栄光とわれわれすべて(ユダヤ人をも含む)の救済にかかわることだからである。
 もしある人が、ユダヤ人はそんなに邪悪なことを意図しているわけではないと言い、ユダヤ人は父なる神を冒涜し呪っていることを知らないのだ(なぜなら、ユダヤ人は主イエスやわれわれキリスト教徒の悪口を言っているが、神を至高の存在として美しく誉め讃えているのだから)と言ったとするなら、そのときは次のように答えるべきであろう。
 もしユダヤ人がそのことを知りたがらず、またそのことが善いことだと思わないのであれば、われわれキリスト教徒がそのことを知っておかなければならない。神は、彼らがこうしたことを知ることのできるようにと千五百年間にわたって伝道されるよう取り計らってきたのであるからして、ユダヤ人は知らなかったと言い訳はできないはずである。神はまた彼らにもそれを知るように求められたのである。
 千五百年にわたって神の言葉を聞きながら、自分はそれを知りたくないなどと言っている者はみな、当然の報いとして卑しい言い訳、つまり七倍の負債が課せられるであろう。

彼らの救世主は「にせもの」である

 最後に私は、みずからに次のように言い聞かせる。もしも神が私に対して、ユダヤ人が望みこいねがう救世主とは異なった救世主を与えることを望まないのであれば、私は人間でいるよりも雌豚になったほうがずっとよい!
 これについて、私はあなたがたにいくつかの正当な理由を示すことにしよう。ユダヤ人は、自分たちの救世主にコホバや世俗的な王になってほしいと強く望んでいるだけなのである。その王とは、キリスト教徒を虐殺し、世界をユダヤ人のあいだで分割し、彼らを金持ちの王侯とし、最後には他の王やその子どもたちと同じように死んでゆく世俗的な王である。
 もしもユダヤ教の救世主が、私という哀れな人間をその精神的な貧しさにもかかわらず救ってくれないのだとすれば、そして私の人生を雌豚のそれの十分の一も良くできないのだとすれば、ユダヤ教の救世主は私にとって善きものだといえるであろうか。
 私は言うことにしよう。わが主なる神よ、あなたの救世主をみずからのものとする者に与え給え、しかし私は雌豚に変えて下さい、と。生ける屍である人間であるよりは、生きた豚のほうがましだからである。そう、キリストが言われたように、「生まれなかったなら、それはその人のためにはましだったろうに」ということなのである。
 しかしながら、もしも私が霊的に私を救済して下さる救世主を得られるなら、私は死を恐れる必要はないし、常に、そして永遠に人生に確信をもち、悪魔や地獄を嘲り、神の怒りの前に身震いする必要もないであろう。そのときには、私の心は欣喜雀躍し、幸せに酔うであろう。神への愛の灯をともし、神に感謝し、神を讃美することをやめないであろう。そのときは、もし神が私に金や銀を与えなかったとしても、全世界は私にとって楽園となろう。たとえ私が獄舎に繋がれたとしてもである。このような救世主をわれらキリスト教徒はいただいているのだ。それゆえにわれわれは、圧倒的な喜びの心をもって父なる神に感謝しているのである。
 そのようなメシア(救世主)をユダヤ人は望まない。彼らにとってそのようなメシアは善いことを与えてくれないのだ。彼らは、自分らの悪臭発する腹を満足させてくれる、あるいは牛や犬のように彼らと共に死ぬような地上の楽園のメシアを所有しなければならないのである。(続く)
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2006年12月02日

『ユダヤ人と彼らの嘘について』その13

説教師に対する忠告

 とりわけあなたがた説教師は、神から課された祈の義務を王侯や摂政たちに思い出させ、ユダヤ人に労働を課し、高利貸しを営むことを禁じ、神への冒涜と呪詛をやめるよう繰り返し主張しなければならない。彼らがキリスト教徒の盗賊や追剥、殺人者、誹謗中傷者、その他の悪魔的行為者を処罰するのに、ユダヤ人の悪魔の子らがわれわれに同様な悪事をなすことを放置しなければならないのはなぜか? われわれは、スペイン人よりもユダヤ人からより多くの災いを被っているではないか。
 彼らは、主人から台所・酒蔵・箪笥・金袋を盗み、加えて主人を呪い、死の脅迫を行なう。そして、われわれも同様にユダヤ人からそうした扱いを受けているのである。彼らはわれわれから盗み、強奪し、われわれの首にぶら下がり、怠惰な怠け者の腹を突き出し、大食漢ぶりを示し、わが母国のなかで安逸な日々を送っているが、その代償として彼らは、わが主キリストや教会、王侯、そしてわれわれすべてを呪い、絶え間なく脅迫し、われわれの死と災難を願うのである。
 かかる怠惰な神者を、われわれキリスト教徒がどのように金持ちにしてきたか、その代償としてわれわれが彼らから望みうるのは、あらんかぎりの呪いと中傷と不幸のみであるという体たらくを少しは考えてほしい。
 この点でわれわれは盲の犬と同じである。ちょうどユダヤ人が不信仰の渦中でうろたえているように、われわれはかかる無慈悲な悪漢から圧政を被っていることがわからず、感じもせずに、彼らをわれわれの王、貪欲な専制者にしているのである。われわれは彼らの捕虜であり臣下なのだ。それにもかかわらず、彼らはわれわれに捕虜として捕らえられていると嘆き、当然のごとくわれわれを馬鹿にしているのだ。
 もしも統治者がユダヤ人を自国から強制的に追い立て、言うところの彼ら自身の国エルサレムへと移送し、いまわれわれに行なっている虚偽・呪詛・神・唾罵・殺人・窃盗・高利貸し等々あらゆる質の悪い忌むべき行為をその地で行なうようにさせ、自国での彼らの勝手な振る舞いを抑えこまなければ……もちろん彼らは、素振りだけは、こうしたことは彼らにとってなんの救いにもならないとしてきた。なんびとも、そうした忌むべき所業を行なう自由を容認する権利は有していないからである。自由はそうした忌むべき所業によって完全に失われるのである。
 あなたがた説教師や牧師たちが、熱心に、そして殊勝にもかかる警告を発しつづけても、君主や臣下がなにも実行しないならば、そのときは(キリストが言われたように)われわれの靴から塵を払って次のように言おうではないか。
 われわれはあなたがたの血に対して潔白である。あなたがたの統治が厳格であるべきにもかかわらず、温情に満ちた慈悲深い倒錯した世の中になっていることを私は知っており、経験してきたからである。そして、温情に満ち、慈悲深くあるべきときには、非常に厳格なのである。
 この世の王は十一代アハブ王のように統治する。彼らは、われらキリスト教徒と人類に対する血に飢えた敵であるユダヤ人に寛大であり、そうすることで天国を手に入れたいと願っているかもしれない。
 だがユダヤ人は、われわれ哀れなキリスト教徒を捕虜とし、苦痛を与え、拷問にかけ、すでに記したように、あらゆる災いを与えるのである。すなわち、彼らがわれわれから奪った金銭を貯えているところではどこでも、われらは苦しめられ、そしてまた実にお人好しのキリスト教徒と見なされるという次第なのである。
 一方、われわれ哀れな説教師はなにを行なうべきなのか。
 第一に、主イエスの言葉を受け入れず、主を十字架にかけたユダヤ人どもに対して、主が「お前たちは毒蛇であり、悪魔の子である」と述べられたときの言葉が真実であることをわれわれは信じたいと思う。洗礼者ヨハネもまた同じことを言っている。
 ユダヤ人がよい状態になることを望んでいる支配者や慈悲深い聖人たちは、われわれが主イエス・キリストの言葉を信じるのを許しておくような人間ではない。もちろん、キリストはそうした慈悲深い聖人たちよりもすべての核心をよくご存じである。つまりこれらユダヤ人どもは毒蛇の子孫であり、悪魔の子以外のなにものでもないということを。そしてまた、彼らの父である悪魔と同じくらいに「良き」ことをわれわれにもたらしてくれるであろうということを。
 われわれキリスト教徒は、あの者どもがわれわれに対してどんなに良きことをなしてくれたか、聖書の記述以外にもみずから被った体験にもとづいて以前からよく理解しておくべきであった。
 こうした毒蛇や若い悪魔ども、つまりわれわれと主キリストの最悪の敵を宿泊させ、世話をし、名誉を与えようとし、罵られ、掠奪され、盗まれ、唾を吐かれ、呪われ、あらゆる災難に見舞われてもよいと考えている者には、ユダヤ人が推奨されるべきであろう。もしこれで十分でなければ、彼を壺のなかに押しこめるか、そのような神殿を這いずりまわらせ、礼拝させることにしよう。そのあとで、わが主と主がわれわれを贖った尊い血を汚すために悪魔と悪魔の子らを慈悲深くも元気づけてやったことを彼に自慢させてやろうではないか。こうして彼は、慈悲の行為にあふれた完璧なキリスト教徒になるであろう。こうした行為に対して、審判の日に、キリストは彼とユダヤ人に永遠の地獄の炎という回答を出されるであろう。
 粗野な言い方を許してもらえば、ユダヤ人の野蛮な呪いと言われるが、これについては他の人びとも多くを記しており、ユダヤ人もそのように故意に呪い冒涜したいと願っているのだから、やはりそれは呪いと称されるべき性質のものであることは十分に承知しているのである。これについては、われわれもまたはっきりと、そしてキリスト教徒として霊的な表現で話すことにしよう。わが主イエス・キリストは次のように言われた。

〈わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです〉(「マタイ伝」第十章四十節)
〈あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です〉(「ルカ伝」第十章十六節)
〈わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです〉(「ヨハネ伝」第十五章二十三節)
〈それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません〉(「ヨハネ伝」第五章二十三節)

*訳注――アハブ王/オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年間、イスラエルの王であった。オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはアシュラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行なった。(列王記T第十六章二十九〜三十三節)(続く)
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2006年12月01日

『ユダヤ人と彼らの嘘について』その12

統治者への進言

 要は、ユダヤ人を配下にもつ王侯、領主諸侯がもし私の進言を容れぬとあらば、みずからよりよい「解決方法」を見いだすべきであろう。われわれ全員がユダヤ人という耐えがたき悪魔の軛から解放され、わが主イエス・キリストとその母、全キリスト教徒、そして全統治者とわれわれ自身が、荒れ狂ったユダヤ人どもが神の御前で演じているあらゆる虚偽、悪口、唾を吐く行為、呪詛の共犯者とならないですむ「解決方法」を。つまり、あなたがたはユダヤ人に対して保護と安全通行手形と組合員の地位を与えてはならないのである。ましてや、あなたがたや臣下の所持金や財産を彼らの高利貸しの元手とするようなことは決して許してはならない。
 われわれはいまだに多くの罪を背負っており、神の恩寵と御働きに感謝することを忘れたり、軽んじたりすることにより、毎日その罪を重ねているのである。そのうえユダヤ人という卑しい外国人の悪徳を積み重ね、加うるにわれわれの所持金や財産を彼らに与える必要などまったくないのだ。日々トルコと戦闘状態にあるがゆえに、われわれはみずからの罪を免れて、魂の成長と向上をはかる必要が大いにあるのだということを想起しようではないか。
 こうした件について、一連の事態を暴露し、警戒を促した者として、私はみずからの良心に照らして潔白であり、なんら疚しいところはないことを願っている。牧師であり伝道師であるわが親愛なる方々、そして友人の皆さん、私は皆さんが教区民に対して、永遠に破滅することのないよう警告を発するという自分たちの役割を誠実に想起されんことを願っている。あなたがたは、そのためにはどうしたらよいかを知っているはずである。
 つまり、教区民はユダヤ人に警戒体制をとり、彼らを遠ざけねばならないのである。だが、彼らを呪ったり、個人に損傷を加えたりしてはならない。なぜなら、不幸にも彼らは千四百年間、ナザレびとイエス、つまりマリアの御子息を呪いつづけてきたが、それは実はみずからを呪い侮辱しつづけてきたことなのだから。
 こうした観点から、あなたがたは為政者に対して、私が述べたようにユダヤ人を処置するよう促すことができる。この点に関しては、為政者がなんらかの処置をしようとしまいと、すべての人びとがみずからのうちにユダヤ人に対する決意と展望をもつことによって、自分とみずからの良心を大切にすべきである。

キリスト教徒の死を熱望する

 ユダヤ人に出会ったり、その男のことを考えるときには、あなたがたは常に自分に次のように言い聞かせるべきである。
 見よ、あの「口」は、かけがけのない血で私を贖って下さったわが主キリストを毎週土曜日に呪い、忌み嫌い、唾を吐きつづけている。そしてまた、神の御前で私と私の妻子と全キリスト教徒がこの上なく悲惨な状態で刺し貫かれて殺されることを祈願し、呪っている。彼らは、できるものならば、われわれの財産を所有したいと思っているのだ。彼らは(自分たちの習慣に従って)今日まさにイエスの御名に唾を吐いており、おそらくその唾は彼らの口や顎髭を濡らしているが、彼らの顔面にはまだ十分に唾が付く余地がある。こうした悪魔のような連中(口)と一緒に食べたり飲んだり話したりすべきなのだろうか? 私は、ユダヤ人のなかに棲む悪魔の仲間となり、キリストの尊い血に唾を吐きつづける多くの悪魔どもの虜になってしまうのだろうか。神よ、どうか私がそうならないようにして下さることを!
 もしも彼らがわれわれのように神を信じないならば、彼らがそうなるように手助けすることはできなし、信仰を受け入れるように強制することもできない。
 けれども、彼らが故意に虚偽・冒涜・呪詛・恥辱を加えるのを手助けすることだけは避けねばならない。また、彼らに庇護(肉や飲み物、宿泊場所、近隣者としての便宜)を与えて、彼らの悪魔的な夢と大言壮語の共犯者になってはいけない。とくに、われわれが彼らに友好的で奉仕する場所ではどこでも、彼らは神が自分たちを主人とし、われわれを召使いにしたのだと得意げに横柄に自慢するからである。
 安息日にはキリスト教徒が火をつけ、彼らが望むものはすべて料理してやるが、彼らはそれをまるで善い行ないをしているかのように、呪い、唾を吐き、中傷する。だが彼らはわれわれから盗んだ資産を食べ尽くしているのである。
 この千四百年間われわれの疫病神にして害毒、あらゆる災難の元凶でありつづけ、現在もそうであるユダヤ人どもは、このように絶望的で、悪魔的で、害毒をたれ流す者どもなのである。(続く)
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2006年11月30日

『ユダヤ人と彼らの嘘について』その11

彼らはモーセを裏切りさえする

 ユダヤ人はいつも、モーセが異邦人に対して高利貸しを営むことを彼らに許可したのだと公言する(「外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたの神、主が、あなたの手のわざのすべてを祝福されるためである」申命記第二十三章二十節)。これ以外に彼らに有利な章句はない。
 彼らには次のような回答が与えられている。すなわち、二種類のユダヤ人またはイスラエル人が存在する、と。
 一つは、神がモーセに命じたように、モーセに導かれてエジプトを出てカナンの地〔パレスティナ西部の地域〕に入った者たちである。モーセは彼らに対して神の戒律を与え、彼らは外国へ出ることなく、彼らの土地でひたすらメシアの到来まで彼らの戒律を守りつづけていた。
 もう一つは、モーセのユダヤ人ではなく(ローマ)皇帝のユダヤ人である。彼らは統治者ピラト〔ポンテ・〜、キリストを処刑したユダヤ(パレスティナ南部の古代ローマ領)のローマ総督。処刑判決に際し、みずからに責任のないしるしとして手を洗った。マタイ伝第二十七章十九、二十四〜二十五節〕の時代のユダの地に起源を有する。ピラトが法廷の場で「キリストと呼ばれるイエスについて余はどうすべきなのか」とユダヤ人に尋ねたとき、彼らは「十字架にかけよ! 彼を十字架にかけよ」と叫んだ。ピラトは言った。「お前たちの王を十字架にかけるのか」と。彼らは叫んだ。「皇帝以外にわれらは王を持たぬ」と。こうした皇帝への服従を神はユダヤ人に命じたことはなかったのだが、彼らは自発的にそのように言ったのである。
 しかし、皇帝が服従を命ずると、すぐに反抗し、皇帝に歯向かって臣下となることを望まなかった。そこで皇帝はユダヤ人をエルサレムから追放し、彼の領土に完全に分散させ、その地において彼らは服従せざるを得なかったのである。
 現在、穀潰しのユダヤ人がいるのはかかる事情によるものである。彼らのことは、モーセはなにも知らない。ユダヤ人もモーセについてなにも知らない。彼らはモーセの一節も暗唱していないのだから。そこで彼らはまずカナンの地に戻り、モーセのユダヤ人となってその戒律を守り、異教徒や異邦人を平定しなければならない。そして、彼らは異邦人が許容するかぎりにおいて高利貸しを営めばよいのだ。
 しかし、ローマ皇帝の領土である外国にいるにもかかわらずモーセの教えに従おうとしないのであれば、モーセの戒律に従って皇帝の法律を守るようになるまで、彼らは自分たちより身分が上の人びとに逆らって高利貸しを営むべきではない。それは、彼らが所有すべき土地またはイスラエルの国はカナンの反対側の岸だからである。モーセは彼らをエジプト人およびバビロニア人または他のどの国民のもとへ連れて来たわけではなく、申命記でモーセ自身が何度も述べているように、エジプトの地を出てカナンの地に連れて来ただけなのである。彼らは、ヨルダンの反対側に自分たちが所有することになる領土でそうした戒律を守るべきである。
 モーセによって創造された聖職者・儀式・公国君主権力にかんするかぎり、それらはすでに千四百年前に崩壊しており、その時代以前に存在したモーセの律法もまた同様に崩壊し終焉したのは確かなことである。それゆえに、皇帝治下のユダヤ人は皇帝の法によって処置されるべきで、千四百年間ひとりも存在していないモーセのユダヤ人のように処置されるべきではない。モーセによって高利貸しを許された自分の国土をもたず、ましてや海外領土ももたないのだから、そうするのが至当なのである。
 そして最終的には、若く頑強なユダヤ人に(麦打ち用の)から竿や斧、踏み梳き紡錘を与えて、アダムの子らに課せられていると同様、自分のパンを自分の顔に汗を流して稼がせるべきである。

〈あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない〉(「創世記」第四章十九節)

 彼ら神聖な民がストーブのまわりに陣どって怠けながらわれわれのパンを貪り喰らい、自分たちはキリスト教徒の主人であるなどと法螺を吹いて、われら呪われたゴイムを働かせ額に汗を流させるなどということを許してはならない。彼らの怠惰は自分たちの過去から生じたものなのである。
 だが、彼らをわれわれに奉仕させたり働かせたりするときは、われわれとその妻、子どもたち、召使、および家畜などを身体的に傷つける可能性がある。なぜなら、そうした労働になれていない世界の高貴な王侯ども、すなわち有毒な苦い蛆虫は、呪われたゴイムのもとでみずからを卑しめる行為をするのは極めて不熱心なはずだからである。
 フランスやスペイン、ボヘミアおよびその他の地域における諸国民のユダヤ人に対するごく当たり前の知恵を採用することにしよう。これらの諸国民は、ユダヤ人が高利貸しを営んで貪り取った額を計算させ、それを平等に分配した。そして、そのうえで彼らを国外へ追放したのである。
 すでに述べたように、彼らに対する神の怒りは非常に大きいので、穏健な慈悲ではかえって罪深くなるだけであり、彼らは、苛烈な処置によってのみ多少はましになるのである。
 それゆえに、彼らを追放しよう!
 われわれの富で慈善を行なう
 ユダヤ人は多額の金を政府に与え、そうすることで政府の役に立っていると言われている。そのとおり。しかし、彼らはそれをどこから得て与えているのだろうか。それは彼ら自身のものではなく、高利貸しによって統治者とその臣下の財産を奪い、それを与えているだけのことである。
 かくして、統治者はユダヤ人に奪われものを臣下から取ることになる。つまり、臣下はユダヤ人のために金を供出しなければならず、統治者から金を取られるという二重の災難を被らねばならないのである。こうしてユダヤ人どもはわが国で自由に嘘をつき、悪態をつき、呪い、盗みながら居すわっていることができるという仕組みなのである。
 あらゆる種類の悪徳を行なうために彼らがこの国に滞在することを、みすみす許しておくべきではないのではなかろうか? 馬鹿にされ、お金を与えるために、われわれがあちこち鼻面をひきずり回される様子を見ながら、ユダヤ人どもがやんやと喝采していることを許すべきではないのではなかろうか? かてて加えて、われわれの汗と血によって彼らは金持ちになる一方で、われわれは貧しくなり、干からびるまで吸い取られつつあるのではないだろうか?
 もしこうしたことが正しいなら、召使いと客ないし捕虜は、主人に毎年十フロを与える代わりに千フロ盗んでいることになる。召使いと客はすぐに金持ちになり、雇い主と主人はたちまち乞食になるだろう。
 ユダヤ人どもが、万一そのような額の金を自分らの財布から政府に与えることができたとしても(不可能なことであるが)、そうすることで彼らは会堂でわが主キリストについて公然と嘘をつき、中傷し、唾を吐き、呪詛することを保護される権利を手に入れようとする。さらにまた、あらゆる種類の不幸がわれわれの上に、すなわち、われわれすべてが傷つけられ、わがハマン〔ユダヤ人を滅ぼそうとしたが、計画が露見し、自分が設けた高い絞首台で処刑されたペルシアの大臣。「エステル記」参照〕や皇帝、君主、諸侯、妻、そして子どもたちと共に滅びることを望み、主キリストと全キリスト教世界、わが統治者、そしてわれわれの妻と子どもたちが惨めなまでに安売りされるといった、あらゆる種類の不幸が降りかかるよう彼らが欲することを保護される権利を手に入れようとするのである。
 裏切り者のユダヤ人は、われわれよりはるかに聖人に値するのかもしれない。ただし、彼らが年に十万フロ寄進することができればという条件付きであるが。そうだとしても、キリスト教徒を冒涜し、呪い、唾を吐く権利を彼らに与えたり、高利貸しを営むことを許してはならない。そんなことをすれば、われわれは自分たちをあまりにも安く彼らに売り渡してしまうことになるからである。
 全キリスト教世界とわれわれ全員が、みずからの金によって買収され、富貴なお方や領主たちの頂点にいるユダヤ人によって悪態をつかれ、呪われ、嘲笑されるといったようなことを許すというのであれば、それはわれわれの許容の範囲をはるかに越えたことである!
悪魔とその使者にとって、それはなんと喜ばしいことであろうか。そうした事態は、あたかも子豚に歯を剥きだす雌豚のように、彼らがわれわれを馬鹿にして鼻先でせせら笑うといったようなことになるかもしれない。だがそれは、神の御前ではまさに天罰に値することなのである。(続く)
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『ユダヤ人と彼らの嘘について』その10

彼らはわれわれの富を使ってわれらを奴隷にする
 こうしたやり方で、われわれキリスト教徒のなかに天国をもつことができた暁には、悪魔は笑い踊るのではなかろうか。そこでは、悪魔の使徒であるユダヤ人を通じてわれわれの所有物を貪り喰らい、われわれに感謝して神と人間を冒して呪い、われわれの口と鼻を呪詛で満たすのである。ダビデ王〔前九九七ころ〜前九六五ころ〕やソロモン王〔前九六七ころ〜前九二八七〕統治下のエルサレムで彼らが所有していたものは、われわれのもとで日々盗み掠奪しているほどではなく、今ほどよき日々を享受することはできなかった。それでも彼らは、われわれが捕囚の身にしていると文句を言う!
 そうなのだ、われわれはユダヤ人を所有し、捕囚の身にしている。ちょうど私がリューマチや「ねぶと」、その他の病、不幸を一身に背負いつづけているように。お金と財産とすべての所有物を持参し、貧しい召使いとして傅きたいと願う者は誰か! 私は、そうした災いはユダヤ人と共に、さらに彼らと一緒にいたいと願う者も含めて、エルサレムに行ってくれればと心より願っている!
 彼らを捕囚の身にしていないのは明らかなのに、あれほど偉大で高貴な聖人たちが、なぜそれほどまでにしてわれわれに怒りを露にするのだろうか?
 彼らはイエスの母マリアを娼婦と呼ぶが、われわれは自分の妻を娼婦とは呼ばないし、彼らはわが主を私生児と呼ぶが、われわれは彼らを私生児とは呼ばない。われわれは、彼らを呪わず、あらゆる種類の肉体的および精神的な幸せが彼らの上にあるよう祈り、われわれと一緒に暮らすことを認めている。彼らの子どもを誘拐したり、切り刻んだりなどしない。彼らの水に毒を入れないし、彼らの血を渇望することもない。
 なにゆえに、われわれは、かかる神聖な神の子の恐ろしい怒り・妬み・憎しみに値するのだろうか? 神が正気とは思えぬほどの無分別と荒れ狂う心をもって彼らを処罰したのは、モーセから引用したとおりである。
 かくして、エルサレム崩壊後の千三百年間にユダヤ人のせいでわが主やキリスト教徒、そして(まだその目や肌に輝きのある)子どもたちが流した穢れなき血に対して報復しなかったことは、われわれの失敗であった。
 彼らを殺害せず、彼らの殺人・呪い・冒涜・恥辱を咎めもせずにわれわれの間に住むことを許し、彼らの学校・家・身体・財産を守り、そうすることによって彼らを怠惰にし、彼らを信頼してわれわれから金銭や財産を搾取することを保証し、助けた。ところが、彼らはわれわれを嘲り、唾を吐きかけ、最終的に彼らが勝利し、大罪を犯してわれわれ全員を殺害し、その財産のすべてを強奪することを願い、日々祈っているのだ。こうしたことがすべて、われわれキリスト教徒の失敗だったのである。
 教えてほしいものだ。彼らには、われわれ呪われたゴイムを憎み、呪い、われわれの最終的で完全な、そして永遠の没落を求める大きな動機はないのか?
 いまやわれわれキリスト教徒は、この捨てられ、呪われた民、ユダヤ人をどう扱ったらよいのであろうか? われわれの間に入りこんでいて、その虚偽と神と呪いの多くがわれわれに知られている彼らに、われわれは我慢がならないのである。われわれは、彼らの嘘や呪いや神の共犯者とならないよう、黙って悩んでいるべきではない。われわれは(預言が述べているように)消すことのできぬ神の怒りを鎮めることはできないし、彼らはまた改宗しようともしない。彼らの一部でも火と灰のなかから救い出そうと欲するならば、祈りと敬虔に加えて手荒な慈悲をも用いなければなるまい。復讐は許されていない。復讐心は、われわれが彼らに抱くよりも千倍も大きくなって自らの首に纏いつくだろう。
 私の本当の意見をあなたがたに述べることにしよう。
 第一に、彼らの会堂と学校を避け、それらに反対するよう、国民に警告せよ。これは神とキリスト教会の栄光のためになされるべきことである。また、われわれがキリスト教徒であり、神の御子とキリスト教徒に対するそうした虚偽と呪いと神を承知したうえで、それらに寛大ではないことを神にわかっていただくようにすべきである。なぜなら、われわれが無知で寛大でないかぎり(私自身もそのことを知らなかった)われわれをお許しになるであろうから。
 けれども、このことを知ったいま、われわれの目と鼻の先でユダヤ人がキリストとわれわれキリスト教徒を冒涜し、呪い、唾を吐きかけ、恥辱を与えているにもかかわらず、そうしたことが行なわれているユダヤ人の建物にわれわれが寛大であるなら、ご承知のように、あたかもわれわれ自身が行なったか、あるいはもっと悪いことをしたのと同じことになり、大変になるだけなのである。モーセは「申命記」のなかで、偶像崇拝を行なっている都市は完全に火で燃やし、なにも残すべきではないと記している。もしモーセが今日存命なら、彼はユダヤ人の会堂や学校に火をつける最初の人間になるであろう(聖書の証言に従えば)。
 第二に、あなたがたは、彼らが自分の家をわれわれの間に建てることを拒否せよ。彼らは家庭でも会堂と同じことをしているからである。その代わりに、彼ら自身が主張しているようにわれわれの土地の主人ではなく、捕らわれた放浪の身であることを知らしめるために、ジプシーのように軒先か馬小屋に収容してもよいであろう。これこそが、休みなく血生臭い殺人を吠え立て、神の御前でわれわれキリスト教徒に不平をこぼす彼らにふさわしいことなのである。
 第三に、虚偽と呪いと神を説く彼らの祈祷書とタルムードの写本を全部没収せよ。
 第四に、彼らのラビが教えることを禁止せよ。彼らは貧しいユダヤ人たちをモーセの章句(申命記第七、十一、十二章)の虜にし、仕事をする権利を剥奪したからである。モーセの章句では、そうしなければ身体と魂を失うとして、彼らのラビに従うよう命じている。けれども、モーセは明確につけ加えている。「主の律法にもとづいて彼らが教えることに関しては……」と。このことを不心得者たちは見過ごしているのだ。そして、主の律法に逆らって、彼らの恣意に貧しい人びとが服従するのを利用して、そのような毒と神をふり注いでいるのである。
 第五に、街道におけるユダヤ人の保護を廃止せよ。彼らは貴族でも役人でもないし、もともとわが国にいる権利はないからである。彼らは家にとどまるべきなのだ。現在わが国では、ある金持ちのユダヤ人が12頭立ての馬車に乗っていると聞いている。そのユダヤ人はコホバになりたがっているのだ。彼は高利貸しを王侯や貴族、地域住民、民衆に対して営んでいるが、高官たちはそれを黙認している。
 もしもあなたがたと王侯および諸侯の方々が、こうした高利貸したちがこの土地に住み、街道を往来することを禁止しないなら、私はあなたがたに対抗するために騎兵を集めたいと思う。というのは、あなたがたはこの書物を通してユダヤ人とは何者であるか、また彼らがいかに扱われるべきか、そして彼らの行動が保護されるべきではないことがよくわかったであろうから。彼らの醜悪な行為の共同者になりたくなければ、あなたがたは彼らを保護すべきではないし、またそうすることもできないはずだ。たとえ彼らに配慮したとしても、結局はあなたがたが滅びるだけのことなのである。
 第六に、ユダヤ人にとって異国の地、つまり自国の主人ではない場所においてユダヤ人が高利貸しを営むことを禁止せよ。それはモーセによって禁じられたことであり、貨幣、金銀は一切とりあげて保管すべきである。そういうわけで、彼らには他に収入はないのだから、彼らが所有しているすべてのものは高利貸しによって(前述のごとく)われわれから盗み、掠奪したものなのである。
 そうした財宝は次のように使われるべきである。つまり、ユダヤ人が本当に改宗した場合に、その人柄に応じて自分の貧しい妻子や老人や弱者を養うために百〜三百フロ(貨幣単位)与えることにする。不正に取得されたかかる財産は、神の祝福を受けられるような正当な使用方法を採用しないかぎり、呪われたものとなってしまうからである。(続く)
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2006年11月28日

『ユダヤ人と彼らの嘘について』その9

彼らはイエスの御名を冒涜する

(偽りの御名でイエスに対して憎しみを隠しもつユダヤ人たちの擦れっからしなやり方についての諸論述はたいへん興味深いものがあるが、ここでは次のように述べている)
 それゆえに彼らは、イエスの御名を次のように扱う。ヘブライ語でJhesusは「治療士」または「救済者」を意味する。古いサクソン人はHeiprichまたはHiprichという名称を用いた。それは、われわれが現在Helprichと呼ぶイエスの古い御名のように聞こえる。しかしユダヤ人たちは、それを故意に捩じ曲げて、彼をJesuと呼ぶ。これはヘブライ語では名前でも言葉でもなく、単なる三つの文字か数字か暗号でしかない。それはあたかも私が、CLUという文字を数字と見なし、CLUを155とするようなものである(CLU=ローマ字ではC‐100、L‐50、V‐5‐155。VとUは語源的には同じである)。
 かくして彼らはイエスJesuを316と呼ぶのである。そのような数字は Nebel Borikを意味するもう一つの単語を連想させるといわれている。この点について、読者はアントン・マルガリタムの著作でより多くのことを学べるであろう。ユダヤ人はそれらの数字や単語を使ってなんという悪魔的な所業を行なっていることか。
 彼らはわれわれキリスト教徒を同様のやり方で扱う。われわれが彼らを訪問し、彼らに迎えられたとき、彼らは「神があなたを歓迎する」(ドイツ語では Gott wilkommen)という言葉を捩じ曲げて「Shed wil kom」すなわち「悪魔よやってこい」ないし「悪魔がやって来る」と言う。われわれがヘブライ語を理解できないのをいいことに、彼らはひそかにわれらを呪っているのである。つまり、ユダヤ人がわれわれを地獄とあらゆる災厄の炎で呪っているというのに、われわれは彼らが友好的だと思っているというわけである。

彼らは聖母マリアを娼婦と呼ぶ

 かくして彼らは、彼(イエス)を娼婦の子と呼び、彼の母マリアを娼婦と呼ぶ。彼女はイエスを鍛冶屋との不倫のうちに産んだとするのである。実に不本意なことであるが、私は悪魔と戦うために非常に粗野な言葉を使わねばならない。
 彼らが単なる憎悪と身勝手でこうした嘘をつくのは、ただ彼らの哀れな若者やユダヤ人がイエスの教義(それを彼らは否定できない)を受容してしまわぬよう、われらの主に対する偏見を彼らに抱かせるためである。サバスティアヌス・ムンスターもまた自著『聖書Biblia』のなかで聖母を「マリア」と呼ばず「ハリアHaria」つまり泥の山と呼ぶ有害なラビがいると指摘している。そして、われわれが知らない、ユダヤ人たちが仲間内だけで行なっているもっと多くのことは誰も知ることはできない!
(ルターは、救世主やバーコハブについての入念で厳密な議論でユダヤ人的性格、その著書、願望に関する学識の完全さを示し、最後にキリスト教徒のなかにおけるいわゆる「捕囚」の問題にたどり着く)
 われわれが彼らを捕囚の身にしていると嘆くのは、なんともまったく途方もなくひどい嘘であることをよく知ってほしい。
 エルサレムは千四百年以上前に破壊された〔七〇年陥落、神殿炎上。叛乱軍の残党、死海西岸のマサダ砦に立て籠もって抵抗するも陥落、シカリ党全員自決(〜七四)〕。それ以来、われわれキリスト教徒は世界中でユダヤ人によって苦しめられ、迫害を受けてきた。およそ千三百年近くにわたって(前述のように)ずっと彼らはキリスト教徒を捕獲し、殺害してきたと訴えることは正当なことである。そのうえ今日まで、われわれはどんな悪魔が彼らをわが国へ連れてきたかわからないままになっている。彼らをエルサレムから連れてきたのはわれわれではない!
 かてて加えて、今日だれも彼らを拘束してはいない。彼らには、土地も公道も開放されており、その気になればいつでも自分たちの国に移動できる。彼らから自由になるために、われわれは彼らに提案をしたい。
 彼らはわが国のなかの疾病やペスト、災難以外のなにものでもない。われわれにとって重い荷物なのである。ある人間が自分の家のなかのある者に我慢ならぬとき、彼は捕らえられていると言うであろうか。
 なぜ彼らは、われわれキリスト教徒を、われわれの国のなかで捕囚の身にすることができるのだろうか。なぜ彼らは、われわれを額に汗して働かせ、自分たちは暖かいストーブの前に座って金や商品を所有しているのであろうか。彼らはなぜ怠け者の大食漢や大酒飲みで、われわれが働いた財貨で安穏かつ裕福に暮らし、呪うべき高利貸しによって、われわれとその財産を掠奪するのであろうか。彼らはなぜ、われわれを嘲り、唾を吐きかけるのであろうか。
 われわれは自分を犠牲にして働かねばならず、彼らが貴族であることを認めなければならないからである。かくして彼らは、われわれの王であり支配者なのである。われわれはみずからの財産と汗と労働を捧げる彼らの召使いなのである! つまり、彼らはわれわれに感謝し、われわれに報いんがために、わが主を呪っているというわけである!(続く)
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2006年11月27日

『ユダヤ人と彼らの嘘について』その8

強い敵意をもった有害な敵

 わが親愛なるキリスト教徒よ、それゆえに心よりユダヤ人たらんとするユダヤ人ほど、敵意を抱いた有害で強力な敵は、悪魔以外にはないということを知らなければならない。彼らのなかには牛やアヒルが信じることを信じる者もいるかもしれない。しかし彼ら全員が血と割礼の信仰に包まれているのだ。
 それゆえに歴史上、彼らはトレントやワイゼンシー等におけるように、しばしば井戸に毒を投げ込み、子どもたちを誘拐・殺害したかどで有罪を宣告されたのである。
 もちろん彼らはそれを否定する。だがそれが事実であるにせよないにせよ、秘密であるにせよないにせよ、そうしたことを行動に移すことが可能な場合には、それを実行するために十分かつ準備の整った意志が彼らに欠けているわけではない。
 こうしたことをしっかりと知ってほしい! そして、それに従って行動してほしいのだ!
 たまに彼らはよいことするかもしれない。しかし、それはあなたがたへの愛によるのでも、あなたがたの幸福のために行なわれるわけでもないということを、よくよく承知しておかねばならない。当然のことながら、彼らは、われわれの間に住む余地をつかむためになにかをしなければならない。だが、彼らの本心はすでに私が述べたとおりであり、今なお依然としてそうあり続けているのだ。
 あなたは私の言うことを信じられないだろうか。そのときは、リラ、ブルゲン、その他の高潔で信頼できる方々の書物を読んでみてほしい。万一それを彼らが書いていないと仮定しても、聖書は蛇と女性という二つの子孫が、他のだれよりもキリスト教徒と対立しており、神と悪魔のあいだにはいかなる妥協も存在しないことを明らかにしている。こうしたことは、彼らの著書や祈祷書にもまた粗野なかたちで描かれていることなのである。
 悪魔を知らぬ者は、なぜ彼らが他のだれよりもキリスト教徒に対してそんなにも敵意を抱くのか不思議に思うであろう。私たちとしては、彼らに善行のみを施すのだから、彼らがそうなる理由がわからないのだ。彼らは、われわれの祖国で、われわれの庇護のもとに住みついており、土地や公道を利用し、市場や街を使用している。
 だが王侯や政府は、みすみす傍観し、鼾をかき、口を開けたままでおり、その財布や箪笥からユダヤ人が思いのままに取ったり盗んだり奪いとるのを許している。つまり王侯や政府は、自分と臣下がつけ込まれ、丸裸になるまで吸い取られ、自分自身の財宝で乞食にさせられてしまうという事態を許しているのだ。ユダヤ人は外国人なので、間違いなく何かを所有していたはずはなかった。したがって、彼らが現在所有しているものは、確実にわれわれの所有していたものに違いないのである。
 彼らは働かず、働いた報酬をわれらから得たわけでもない。また、われわれが彼らにそれを寄贈したわけでも、与えたわけでもない。それにもかかわらず、彼らはわれわれの金銭や財宝を所有し、亡命中のわが国で主人公となっているのだ。
 もし盗人が十グルテン盗むなら、この者は絞首刑にされねばならない。もしも彼が街道で掠奪すれば、首をはねられてしまう。ところがユダヤ人となると、高利貸しによって十トンの金を盗んだときでも、神御自身よりも大切に扱われるのだ。

ユダヤ人はひそかにわれらキリスト教徒を呪う

 さらに彼らの顕著な特徴として、自分たちのあいだで次のように言い合うことで、彼らの信仰とわれわれへの激しい憎悪を強めていることが挙げられる。 

〈いかに神がわれらと共にあるか、そして流浪の身であるわれわれを見捨てていないか、見守り続けよ。われわれは働かず、よき怠惰な日々を満喫している。そして、呪われたゴイムは、われわれのために働き続けなければならない。われわれは彼らの金銭を手に入れる。それゆえにわれらは彼らの主人であり、彼らはわれわれの召使いである。
 イスラエルの子どもたちよ、事態はさらに良くなっていくであろう。もしもわれわれがかくのごとく継続し、異教徒たちの「ヘムダート」(欲望、財産:ヘブライ語)を高利貸しによってわれわれのものにしてゆくならば、われわれの救世主がやって来られるであろう〉

(歴史的な聖書注釈の長い論述のあとに、すでにこの時代にルターが「タルムード」〔ユダヤの律法とその解釈〕と「シュルハン・アルク」を知っていたことがわかる大変興味深い一節が続いている。このことが、ルターのユダヤ問題における態度の変化を説明する)
 ユダヤ人の「タルムード」やラビたちは次のように述べなかっただろうか。
 もしユダヤ人が異教徒を殺害したとしても、殺すことは罪ではない。しかし、彼がイスラエルの兄弟を殺すなら、それは罪である。もし彼が異教徒に対して誓約を守り続けなかったとしても罪ではない。それゆえに、異教徒から盗んだり掠奪することは(彼らが高利貸しで行なうのと同様に)神聖なる仕事なのである。なぜならば、彼らは高貴な血筋であり割礼を受けた神聖なる人間であるが、一方のわれわれは呪われたゴイムなので、われわれキリスト教徒に罪深くありすぎることは決してあり得ないというふうに考えているからである。そして、彼らは世界の支配者であり、われわれは彼らの召使い、そう、彼らの家畜なのである。
 要するに、ラビが彼らに教えたように、そしてまた福音書の著者がわれわれに告げたように、ユダヤ人は父母を祝福する第五の戒律を廃止したのである(「『……父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました」マタイ伝第十五章六節)。
 また、マタイ伝第二十三章十三節(「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです」)にあるように、彼らはより恥ずべき教義を実践したのである。マタイ伝第五章二十八節(「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」)も言うにおよばぬことである。
 彼らは十戒を、なんと狡猾に説教し、解釈したことであろうか!
 そして彼らは神殿のなかにお金の両替所や商人およびあらゆる種類の貪欲な商取引を持ちこんだ。それは主キリストが、彼らは神の家を盗賊の巣にしたと言ったことである。神御自身のお住まいを盗賊の巣と呼ばねばならぬとは、なんと名誉なことであろうか。その住まいは、なんと栄光に輝くことであろうか。いまやみずから〔胸に手を当てて〕思い描いてみるとよいのだ。非常に多くの魂が、貪欲で偽りの教義すなわち二重の偽善によって失われているのだから。
 今日までユダヤ人はこのような教義にしがみつき、彼らの先祖たちと同様に振る舞っているのである。可能なところではどこでも、そして彼らの子どもたちに教えられるところではどこでも、神の言葉を曲解し、貪欲で、高利貸しを営み、盗み、そして殺人を犯しているのだ。

異教徒の哲学よりも邪悪なタルムード

 異教徒の哲学者や詩人は、神の統治や来世のみならず、現世の美徳についても、彼らよりはくかに立派に著述している。キケロや彼と同様な人びとによって示されたように、人間は生まれつき他人に奉仕しなければならないし、敵に対しても約束を守り、とくに必要なときには、彼らに対して誠実で役に立たねばならないと彼らは記述している。
 そう、三つのイソップ物語のなかには、タルムード主義者やラビのどの著作よりも、これまでユダヤ人の心のなかに育まれてきたあらゆるものよりも、さらに多くの知恵が含まれていると主張したいと思う。
 少々私は言いすぎではないかと思う人がいるかもしれない。だが、言いすぎどころか、私はあまりにもわずかしか言っていない! というのは、彼らがいかにわれわれゴイムを著作のなかで呪い、自分らの学校や礼拝の場でわれわれに災いが振りかかることをどれほど望んでいるか、私はよく理解しているからである。
 彼らは、高利貸しによってわれらの金を掠め盗り、可能な場所ではどこでも、われわれをあらゆる種類の策略にかけるのである。なによりも悪いことに、彼らはこの点において、そうする権利をもっていると確信しており、うまくやってのけようとしているということである。つまり彼らは、自分たちがそうすることで神に奉仕していると思っているのであり、またそうしたことがなされるべきだと教えているのである。
 悪魔自身と、そして悪魔が取り憑いている者(ちょうどユダヤ人のように)以外、いかなる異教徒もそんなことをしたことはなく、またこれからも誰も、そうすることはあり得ないであろう。
 滅多に起こらぬことなのだが、博識なラビで、神の恩寵によってキリスト教徒となったブルゲンシスは、自分たちの宗派でユダヤ人がキリスト教徒を恐ろしいほどに呪っている(リラも記しているように)という事実に心を動かされ、このことから自分たちが神の子ではないという結論に達した。もしも彼らが神の子であれば、彼らは捕囚の身となったユダヤ人たちがバビロンで振る舞ったのと同様に振る舞うであろうからだ。すなわちエレミヤは彼らについて次のように記しているように。

〈あなたがたを捕らえている都市の王のために祈りなさい。彼らの平安はまたあなたがたの平安なのだから〉

 しかし、わが国の下劣で偽者のユダヤ人たちは、可能なところではどこでも、そして出来ることであればなんでも、なんの理由もなしにわれわれを呪い、憎み、危害を加えねばならないと考えている。従って、彼らが神の子でないことは確実なのである。この点については、あとでさらに述べることにしよう。(続く)
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2006年11月26日

『ユダヤ人と彼らの嘘について』その7

悪魔にとり憑かれた者ども

 ユダヤ人たちは、自分たちが神の戒律を守るという目的のために神からすべてのものを与えられているのであって、それゆえにこそ自分たちが神の民、教会の民と呼ばれているのだということを理解しようとも、聞こうともしない。
 彼らの血筋と高貴さについても、神の戒律を守らせるためにこそ神は彼らを選んだというのに、彼らはそのことをわかろうとせず、考えようともしないで、ただひたすら自分を自慢するだけなのである。
 彼らは割礼を自慢する。だが、割礼を受ける目的(神の戒律を守ること)は彼らになんの意味もないのである。彼らは自分たちの法律・会堂・宗教儀式・町・田舎・国家を自慢する。しかし彼らは、戒律を守るという目的のためにこそ、自分たちがそれらを所有させてもらっているのだということをすっかり忘れているのだ。
 悪魔は、かかる民族にこそ、その全天使たちと共に取り憑きつづけているのである。彼らは、目に見えるもの・自分たちの才能・業績・行為などを常に自慢する。しかし、そうしたことは中身のない空虚な「空念仏」を神に捧げるのと同じことである。
 神は、そうしたものを捧げる民族である彼らを神の民とし、すべての異教徒に優先して彼らを称賛し、祝福する。ゆえに彼らは神の戒律を守らねばならないし、自分たちの神として神を守らねばならない。ところが、それを引き受けようとはしないのだ。
 モーセの次の言葉が当てはまる。

〈彼らは私を神と見なさず、それゆえ私は、彼らを私の民とは見なさない〉

 これはホセア書(第一章九節)にも言われていることであるが、もしもエルサレムの民が離れ離れに引き裂かれて彼らの土地から追い立てられるのを神が許さず、以前と同様に彼らに土地を保持させていたとすれば、ユダヤ人は神の選ばれた民ではないと彼らを説得することなど、誰にもできなかったであろう。なぜなら、邪悪さ・不服従・強情さにもかかわらず、彼らはいまだに会堂・町・田舎を保持していたであろうから。たとえ多くの預言者が日々叫び、たくさんのモーセが立って「汝らは不服従であり、反抗的であるがゆえに神の民ではない」と主張したとしても。
 離散させられ、千五百年間拒絶された後の現在でさえ、彼らは自分たちが神の選ばれた民であるという、異常な夢のような高慢きわまりない考えを諦めきれないでいる!
 彼らは依然として自分たちの利益のために故郷の地に戻ることを望んでいる。しかし、彼らが自分たちの勝手な想像によって聖書のなかに塗りこめておいた言葉以外には、せめてもの慰めとして頼れる約束はまったくないのだ……。
 かくして、ユダヤ人はわがままを言いつづけ、また意図的に過ちを犯そうとしており、ラビたちを見限ろうとしない。それゆえにわれわれもまた、彼らが有害な冒を犯し、嘘をつくのであれば、彼らをそのまま捨ておき、無視しなければならない。

聖書に関する偽り

 私はまた以下のような経験をもつ……。
 われわれがヴィッテンベルクでヘブライ語を読みはじめたことを知って、三人のユダヤ人の学者が新しいユダヤ人に会えるものと期待して私のところにやって来た。彼らは、われわれキリスト教徒が彼らの書物を読みはじめたからには、事態はすぐに改善されるだろうと錯覚していたようだ。私が彼らと議論すると、彼らは彼ら流の独自の解釈を私に示した。私が聖書の原文に戻るよう彼らに迫ると、彼らは言葉をにごして、われわれが教皇や学者たちを信じるように、彼らも彼らのラビを信じなくてはならないと言った。私は彼らを不憫に思って、安心してたどって行くことができるキリストのための案内書を推薦した。しかし後で私は、彼らがキリストのことを「磔にあった犯罪者」と呼んでいると知らされた。それで私は、いかなるユダヤ人ともいっさい関わりをもつ気にならなくなった。
 聖パウロは、彼らは天罰にさらされていると言っている。あなたがたが彼らを助けようとすればするほど、彼らはより邪悪になり、頑固になっていくのである。彼らを彼らだけにして放っておこう。
(このあと、聖書からの多くの立証が続く。それらは神学上の細かく厳正な、それゆえ一般には理解が困難な引用である。文章は力強く、ルターのドイツ魂をよく表わし、きわめて先駆的なかたちで核心を突いた発言をしているといえる。その分量の多さゆえに、ここには採録できない。珠玉のようで感動的な聖書の章句の引用のなかから、ここには以下の文のみを引用する)

〈まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる〉(「ハガイ書」第二章六〜七節)

「すべての国々」は「異教徒」に等しい。古代の人びとは「すべての国々の宝物」を「救世主」と見なしたのである。
 ユダヤ人は、その神殿がまだ立っていた時代に救世主がやって来たことを否定し、神殿崩壊後千五百六十八年も待ちつづけているのに、救世主は依然としてこれからやって来るだろうと主張する。しかしもはやそれは、こんなに長い時間が経ってもいまだにその時期がわからない以上、「しばらくして」などとは呼べないだろう。

彼らの救世主は金と銀

 彼らの救世主は決して来ることはないだろう。「しばらくして」来るはずであったのに大変に長い期間になってしまっているが、これは決してなにも起こらないということなのである。預言は「しばらくして」と言っており、「長い期間」とは言っていない!
 しかし、彼らはそれを、以下のような方法で言い逃れる。つまり彼らは「しばらくして」を否定できないので、「すべての国々の宝物」をヘブライ語でヘムダートと表現し、「救世主」ではなく異教徒のすべての金銀を示していると言うのだ。文法書によれば、「ヘムダート」という言葉は、異教徒の望むものとか、愛するものというように、事実「なにものかへの欲望、愛」を意味する。するとこの文章は、いまや次のように読むことができるのである。

〈しばらくして、すべての異教徒たちの欲望が姿をあらわすであろう〉

 いったいこれはなんだろう。異教徒たちはなにを望むのか、金、銀、そして宝石か。
 あなたがたは、ユダヤ人がなぜこのような解釈をこの箇所に挿入したのか聞きたくなるかもしれない。次のように私は言おう。「彼らの吐く息は、異教徒の金や銀に飢えて悪臭を放っている。太陽のもとに存在するいかなる者も、高利貸しという呪われた業によってわかるように、ユダヤ人ほど貪欲な者はかつてなく、現在もなく、そしていつの世においても存在しない」からだと。彼らはまた次のようにして満足する。

〈救世主がやって来るとき、その方は世界中のすべての金と銀をお持ちになり、それをユダヤ人のあいだに分配するであろう〉

 あなたがたは、神と神の預言は、ユダヤ人のはかり知れぬ貪欲が異教徒の金銀によってどのように充たされるかということ以外になにもなかったと思うであろう。
 子どもの頃から、彼らは、両親とラビから、「ゴイム」(異教徒)に対するこのような有害な憎悪の言葉をむさぼるように吸収し、今も休みなく吸収し、「詩篇」(百九章)によれば、それは彼らの肉体と血液、骨と骨髄のなかにまで浸透しつづけてきており、彼らの生命と存在そのものになっているのである。そして、肉体と血液、骨と骨髄を変えることがほとんどできないのと同様に、彼らはその高慢さと妬みとを変えることができないのである。神が特別の奇跡を起こさぬかぎり、彼らはそうした状態のまま破滅していくしかないのだ。

*訳注「詩篇」(第百九章十七〜二十節)
彼はまたのろうことを愛したので、
それが自分に返って来ました。
祝福することを喜ばなかったので、
それは彼から遠く離れました。
彼はおのれの衣のように
のろいを身にまといました。
それは水のように彼の内蔵へ、
油のように、その骨々にしみ込みました。
それが彼の着る着物となり、
いつも、締めている帯となりますように。
このことが、私をなじる者や
私のたましいについて悪口を言う者への、
主からの刑罰でありますように。(続く)
posted by 島講一 at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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